無為の生き方
世界人類が平和でありますように

5章 自然法爾・全託・無為
                ―すべてを神に委ねます―
 念力は我 を強め、神の道から外れる

願望成就

宗教は本心開発のためにあるのであり、願望を成就させるためではありません。神と一つになる道が宗教であり、現世利益だけを得ようとすることは、本来の神の道ではありません。

願望は自我の想いであり、神のみ心と一つではありません。願望を強く念じ、それが成就したとしても、その願望が神の道から外れていれば、果たしてそれは良いことでしょうか?

例えば、人の不幸を念じそれが成就することが正しい行為でしょうか?また「百万円欲しい」と願い、それが手に入ったとしても、神は「一億円を与える」心積もりであったかもしれません。

本来は、神はその人に必要なすべてをご存じで、あえて、願わなくとも、その人に必要なものはすべて整うようになっています。

ですから、我々がなすべきことは、念を強め、願望を成就させることではなく、神と想いを一つにし、神のみ心のままに生きられるようになることです。

人間は皆凡夫ですから、自分や家族の幸せを願うことは当然ありますし、それが悪いこととは五井先生もおっしゃっていません。それらの想いもすべて神に託し、祈りに替え、想いを純化させて自我の想いを薄めてゆくことです。

念力と祈り

 私が五井先生の教えを知るきっかけになったのは、ユリ・ゲラーがスプーン曲げを演じ、自分もあのような力が欲しいと様々な精神世界の本を読む中で、五井先生のご本に触れる機会を得たからです。

当時、十代、二十代の前半は、五井先生のご本を読んでも、念力と祈りの区別がつかず、何でもかでも念じていました。大学を受験する時も、最初の頃は、その理を知らず、紙に願望を書き、合格して思いっきり笑っている姿をイメージして朝に夕に念じていました。しかし、後半は、念の力に頼ることはせず、ひたすら努力しました。幸いにも二年浪人して希望の美術大学に合格できたのは、念力によるのではなく守護霊様を信じ努力した結果です。

願望を強く念ずれば成就することはあります。しかし、念力は善悪にかかわらず自我欲望ですから、この念力のみに頼っていると、いつのまにか我の強い人間になり、神は常に自分の想う通りになると思い違いして、神はただの飾り物になってしまうと五井先生はおっしゃっています。念力は神の力を通さなくてもでき、多くの人が念じ合えば念力戦争になり末恐ろしい姿です。祈りは神と一つになる行為であり、その力は無限です。

念力は我を強め、神の道から外れる

念力は我を強め、神の道から外れる」

これが結論です。

 私たちが進む道は、神の光明の世界であり、自我の欲望を肥大化させることではありません。念力を強めれば願望を成就することはあっても、自我を満足させるだけで神の道から外れてゆきます。

「神は、その人に必要なすべてをご存じで、いちいち念じなくても、神に委ねればすべてが整うのです。」

この理がわからないから、「神よ、神よ!」と神を呼びながらも、念力に頼る生活を行おうとするのです。それは、真に、神を信じていないということです。

五井先生は、神にすべてを委ねることを「全託」とおっしゃっていました。内なる神に「全託」すれば、すべてが整い、会うべき人に会い、やるべきことをやり、必要な物は必要なだけ与えられます。

神を呼びながら願望を念じるような中途半端な生き方はやめるべきです。すべてを神に委ね、自然法爾に自らの天命を完うしてゆきましょう。


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