無為の生き方
世界人類が平和でありますように

2章 いのちいきいきと生きる
         ― いのちよ光輝け

  「純朴の心」より    白光真宏会出版局 五井昌久著作

妙好人の生き方 1

 ・・・三河七三郎という妙好人がいました。三十一才の時妻をむかえ、夫婦心をあわせ厚く母に孝養をつくしていました。生まれつき正直律儀で、人と交るに礼儀正しく、かりそめにも無益なることを語らず、またみだりに人にさからわず、しかし人のためにいいことと思えば率直に諌めて、諂うこということを知らなかったのです。或る時、自分の山の木を盗んだ者がありました。七三郎は少しも惜しむ色なく、かえってその盗んだ者をさがし出して心からお礼の言葉を述べました。それを聞いて不審に思うてその仔細をたずねた人がありました。すると七三郎は、「これはわしが過去世にてあの人の物を盗んだ報いでありましょう。まことにお恥ずかしい次第です。そこをこちらから返す道を知らずに、あちらから取りに来てくれたのじゃと思えば、お礼を申す外はありませぬ」と答えた、ということです。・・・

 過去世から現代至るまでの間に自分が行った行為が返ってきたんだ、と心から思えるのでしょう。果たして、自分の物を盗まれて、その盗んだ人に感謝できる人が果たして今の世にいるでしょうか?まず皆無でしょう。

 妙好人の生き方 2

同じように、大和の清九郎も、泥棒に入られ銀札を盗まれたにも係らず、僅かでも盗られる物があって嬉しく思う、との弁を聞き、その意味を質すと。

・・・「これが嬉しうなうてどういましょうぞ。その故は、盗まれたわしも同じ性分の凡夫で盗みかねぬものであるのに、今はご慈悲のお蔭で盗み心も起こらず、盗まれる身となったのは有難いことじゃ。わしこの清九郎が五匁十匁でも人様の物を盗んだと評判せられたら、わしはもとよりのこと、同行中の顔よごしで、再び皆さまと交わることも出来まいに、盗まれたのは不覚に似たれども恥辱にはならず、同行の顔もよごれず、仏法に疵もつかず、これほど嬉しいことはありませぬ」と答えた、といいます。・・・

五井先生は、すべての禍を福として受け取れる人は幸せで、何でも悪くとる人と、すべて善い方にとる人と、どちらが幸せな生き方か、神のみ心に叶った生き方であるか、論をまたない、と結論されています。妙好人の行為は一見凡愚に見えますが、この純朴な心こそ、底抜けに明るく生きる原点でしょう。

役の行者

役の行者は、年少の頃から山野をかけ巡り、最初は観音様にすがって修行を達成しようとしていました。しかし、ある日突然、一切の神仏にすがることをやめ、観音像を谷に捨てて念力一本の修行に入り、自らの念力で肉体を霊化させ、この肉体界から消え去ってしまいました。

この「自力の御本尊」といえる役の行者は、五井先生の守護神として、今、五井先生を通して「絶対他力」*の道を説いていらっしゃるわけですから、本当に不思議です。

役の行者は、筆舌に表せぬ凄まじいまでの自力の修行の末に肉体を霊化させた時、神霊の世界は計り知れぬ深く広い世界があることをしりました。今まで考えていたような自力では、これ以上の世界に昇ってゆくことはできない、とわかったその瞬間に、本体の自己と一つになったと、五井先生はおっしゃっています。

神との一体化は、小さな自我の想いで神と一つになろうとするのではなく、神に、自我の想いの一切を捨て去り委ねた時に自然法爾にもたらされるものでしょう。妙好人は、神を信じすべてを神に委ねた結果でしょう。役の行者も、最後はそこに辿り着きました。

*「絶対他力」とは、神にすべてを委ねた時に神の絶対力が表れるという意味です。

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