本物の絵
絵は心です。心を磨くことにより、絵も深まってきます。
その為には、絵を描くだけではなく絵心を磨く努力が必要です。・・・
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芸術には、本物と偽者があると思います。
この秋、久しぶりに上野で「日展」の日本画と洋画を観てきました。どの作品も一生懸命取り組み素晴らしいなと思いましたが、心から私を惹きつける作品はごく僅かでした。それは何故かと考えたとき、技術は素晴らしいが、それに心が伴っていないとでも言いいましょうか、物は立派に描かれてあるが、その中に宿る「いのちのひびき」が伝わってこないと言うべきでしょうか。
私は長年、たくさんの絵を観てきたことによって、絵を一瞬見ただけで、その絵が発する「ひびきの高さ」を感じることができるようになりました。本物の芸術は、絵からかもし出されるひびきによって、観る人の心を豊かにしてくれます。
では、どのようにしたら「いのちのひびき」を表すことができるのでしょうか・・・・・?
私は、美術大学の予備校で2年間、美術大学で4年間、計6年間も物を見て描く訓練を徹底して行いました。その結果、見た物を寸分たがわず描く能力は身につきました。だいたい普通の人で5年も絵を描き続ければ、ある程度の技術は身につきます。しかし、技術は身についても絵が描けるようになった訳ではありません。反対に、その技術に溺れてしまい絵の本質を見失ってしまう人がほとんどです。私もそうでした。血の滲むような努力の結果、やっと物を描けるようになったのに、肝心の絵が描けなくなりました。まさに「創造力の泉」に蓋をしたかのように、アイディアが何も浮かんでこなくなりました。高校時代は自らを天才だと思っていたその才能は枯れてしまいました。結局、技術を追求するだけでは、本物の絵は描けないということです。
「絵は心」なのです。心を磨かない限り、本物の芸術は生まれてこないということです。 その為には、絵を描き技術を習得することと平行して、自らの心の感性を磨く努力が必要です。それは長年の経験から、3つのことを挙げることができます。
1、まず、心磨くためには、「自分以外はすべて先生」であると思い、すべての事柄から学ぼうとする「謙虚な姿勢」をもち、「人生への哲学」を確立することです。「人間とは、神とは、生きるとは・・・」この哲学の確立こそ、芸術を芸術たらしめる基になると考えています。浅い人生哲学の中からは浅い芸術しか生まれてこないということです。人生を極めることこそ芸術の根本であると確信します。
2、「本物の絵」をできるだけたくさん観ること・・・
「本物を描く」のなら「本物を観る」ことです。たとえば、リンゴのおいしさをリンゴを食べたことのない人に伝えるのと同じです。いくらおいしいですよと話してもそのおいしさは伝わる訳がありません。やはり、リンゴのおいしさを知るには食べるしかありません。芸術も同じことが言えます。本物を知らない人は本物を描くことは難しい。やはり、いい作品を数多く観ることによって、感性は確実に磨かれていきます。
3、「自然との一体感を持つ」時間をたくさんつくる・・・
ゲーテは「芸術は自然の模倣である」とその芸術論の中で言っています。学生の頃、この言葉を読んだ時には、自然を写すことが芸術であるはずがないと反発しまいたが、この年になるとこの言葉の真意がよくわかります。芸術は、「すべては自分の心の中にある」と同時に「すべては自然の中にもあります」どちらが先かは・・・「卵」と「鶏」とどっちが先かと同じ論になってしまいますが、両方同時にあります。
心の感性を磨く一番いい方法は、自然の中で心を広げ素直な心で自然を受け入れ自然と一体になる訓練をすることです。私の絵は、この自然との一体感から生まれたものです。私は山が好きで、朝日を見にリュックを背負ってよく山へ出かけます。その美しさに心打たれ大地にひれ伏し涙したことがたびたびあります。山には山の神様がいますし、天気を司る龍神さんもいます。山に登って、とりたてていい天気になるように龍神さんに祈ったことはありません。ただただ自然の恵みに感謝あるのみです。それにもかかわらず、いつも太陽さんは顔を覗かせ私にあいさつをしてくれます。思いもよらない光景がそこに展開されます。それはあたかも自然が私に描いてほしいとポーズを取っているように感じます。自然との一体感とは自然に感謝し自然と仲良しになることです。
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